【ブログ】邪馬台国は九州の豪族が正体ではないでしょうか。 九州は稲作、鉄等大…

【ブログ】邪馬台国は九州の豪族が正体ではないでしょうか。 九州は稲作、鉄等大…

邪馬台国は九州の豪族が正体ではないでしょうか。 九州は稲作、鉄等大…

邪馬台国は九州の豪族が正体ではないでしょうか。
九州は稲作、鉄等大陸への玄関口です。
どう考えても、奈良の豪族より九州の豪族の方が先に中国とつながってるはずです。

その通りです。...アンサー

その通りです。
伊都国から末盧国経由で壱岐までが千五百里、同じく伊都国から奴国経由で千五百里で女王の都するところですから、奴国から南行すれば、旧山門郡あたりに行きます。
その辺り及び隣接する八女市、久留米市あたりが邪馬台国の中心部だったのでしょう。
ただし、数は誇張ですが、戸数7万戸と他の諸国よりも隔絶して大きいと言う様に記述されてますのでその領域としては筑紫平野佐賀平野全体に及んでいたと思われます。
北接して奴国、フミ国、伊都国があったと思われます。 つまりこれら諸国は互いに隣接してたのです。
天皇家の祖先は卑弥呼か台与に近い王族だったと思われます。(台与が有力、血筋かも) 卑弥呼と台与がアマテラスに神格化されたものでしょう。
それは天の岩戸伝承に神話化されています。
天の岩戸伝承は明らかに日蝕に関わる神話ですね。
これは、247年3月24日午後6時25分頃に起こった97%日蝕(ほぼ皆既日食)が神話化したものと思われます。
この年には、邪馬台国では
1、卑弥呼が死亡した。
卑弥呼は日の巫女か御子で明らかに太陽に関わる尊称です。
2、男王が後を継ぐも国中服さず相い攻伐して千人以上が死亡する。
3、南の狗奴国と紛争になり苦戦して魏に助けを求める。
と社会的大凶事が重なります。
その為に古代人にこの日蝕が不吉な大変異として強く心に残ったのでしょう。
春分の頃の 6時25分ですから日没時の落日が大きく欠けて行きながら沈んで行き、(新月だから)真っ暗な闇夜になった、と言う事も不安と恐怖を一層高めたのでしょう。
これにより、卑弥呼は単なる日の巫女(御子)ではなくアマテラスオオミカミ(天照大御神)に大きく格上げされて神格化されたのです。
さらに、翌年の248年の9月5日の午前6時頃にも上り行く朝日のかなり深い部分日蝕がありました。
これが、新女王の台与の登場と結びついて、これらの日蝕が天の岩戸伝承になったと考えられます。
この台与はもしかしたら、天皇家に血筋が繋がっている可能性があります。
すると天照大御神の血統が天皇家の祖先と言う可能性もあります。
なお、卑弥呼と台与の二人の女王をアマテラスに神格化していますが、伊勢神宮では天照大御神とそれを受け継ぐ豊受大神があり、この場合は卑弥呼と台与を区別している事になります。
そうすると、この二つの日蝕を観察できた所に邪馬台国があった事になります。
それは北部九州です。
畿内ははじめの日蝕は観察できない地方ですから。
なぜなら、春分の頃の日没時間は北部九州よりもはるかに東に位置する畿内地方では6時25分は既に日没後だったからです。
ここにも、邪馬台国が北部九州にあったと言う根拠があります。
こうして、邪馬台国が北部九州であったと考えるといろんな事が合理的に結びついてくるのです。
一方、畿内説は単なるこじつけです。
その根拠は炭素年代のみ。
その炭素年代も国際標準曲線ではなく、光谷拓実氏のみ(最近弟子の一人も)が作成した年輪年代法による日本産樹木の較正曲線に基づくと言う代物です。
しかし、その年輪年代法によれば、670年に全焼し、701年から710年頃に再建された法隆寺の五重塔の芯柱は594年伐採となってしまう。
他にも記録と百年以上古く食い違う事例が多数出てくるのです。
すると、炭素年代も百年古く狂ってきます。
以下、その鷲崎氏の論文。
1、法隆寺は 607 年に聖徳太子により創建されたが、五重塔心柱(樹皮型、年輪 354 層、直径 82 cm。1941~1952 年の解体修理に際し厚さ 10cm の円盤標本が切取られ京都大学に保管されていた)は 594 年伐採と測定された (2001 年)。しかし、法隆寺は 670 年に全焼(『日本書紀』天智九年)、7 世紀末~8 世紀初の再建とされる。100 年の誤差が生じ現在も理由不明のままで、光谷拓実も「多くの新説を期待するのみ」とする(『日本の美術』421 号 2001 年)。法起寺三重塔心柱(心材型、直径 70cm。測定年代 572+αに対し 706 年建立:『聖徳太子伝私記』) も建立記録と 134 年違う。法隆寺五重塔心柱は最外周の樹皮が残っており、加工時にほとんど削られていない。 これを踏まえ、光谷拓実(=年輪年代法考案者も心材だからといって目を背けずに考察している)も法起寺三重塔心柱が 100 層以上削られたのは疑問とする。現状は (光谷氏は)100 年前の古材利用 と説明しているが、年輪年代を 100 年修正して共に新材のヒノキとするのが正しい。五重塔や三重塔の心柱は建 築構造上もっとも重要で、建築学からは 100 年前の古材を転用するなど考えられない(鈴木嘉吉)。
以上のように建築学の専門家も、「古材の転用などあり得ない」としているが、畿内説では古材だ!と主張するしかない。
他にも、記録がハッキリしている事例との付き合わせで記録よりも百年以上伐採年が古くなってしまうケースが数多く存在する。
以下その論文。
2、奈良市元興寺禅室(僧房の一部を鎌倉時代の 1244 年に改築)の巻斗(建物の横材を支える部材。樹皮型)お よび頭貫(屋根裏の横柱。樹皮型に近い辺材型)も、伐採年代 582 年、586 年頃に対し建立は 710~718 年:『続 日本紀』『元興寺縁起』で、同様に 100 年ズレている。596 年建立の飛鳥寺(当初は法興寺または元興寺で、後 に飛鳥寺と名称変更)は、平城京遷都に伴い飛鳥から平城京へ移転した(『続日本紀』718 年)。しかし、平城京 の元興寺は移築ではなく新築で、飛鳥の元興寺は「本元興寺」としてそのまま残り、併存していたとするのが通 説である。現に、日本最古の仏像「飛鳥大仏」(製作は『日本書紀』606 年または『元興寺縁起』609 年)は 21 世紀の今も飛鳥寺に鎮座し、本尊を安置する金堂も飛鳥に当然残ったはずだ。、、
滋賀県紫香楽宮跡から出土した9本のヒノキ柱根は、No1~4が樹皮型、No5は辺材型で、『続日本紀』の 記録(紫香楽宮は 742 年に建設を開始し 745 年に短期間都とした)と一致する(表 1)。ところが、No6~9は 心材型で最外年輪は 530~562 年の形成と判定された(1985 年測定)。そうすると、『続日本紀』とは 200 年の 違いがある。ヒノキでは年輪 1 層(1 年)は平均 1mm で、200 年では半径ベースで 20cm 直径ベースでは 40cm にもなる。No6~9は直径 40~50cm の掘立て柱で、直径 80~90cm の原木を外から 40cm も削り仕上げた柱とは考えられない。
以下、
(たとえ、多くの年輪分を削りとったとしても)
削り取られる年輪数は辺材部を含め、最大100層である。
と言うことは、(以下概要)記録との違い200年から最大削り分100年を差し引いても、なお、記録よりも100年も古く伐採されたことになる。
畿内説ではこれも100年前の古材の使用としなければ成り立たない。
また、
4東大寺正倉院の事例でも、AD640 年以前の測定値を示す No1~3、No8~11 も全く同様である(表 1。2002 年および 2005 年測定)。このように、記録と照合可能な 15 事例(法隆寺五重塔心柱、法起寺三重塔心柱、元興 寺禅室巻斗および頭貫、紫香楽宮跡 No6~9柱、東大寺正倉院 No1~3板・No8~11 板)では、AD640 年 以前の測定値が全て 100 年ズレている。これら以外に記録と検証可能な事例は存在しない。仮に測定値が正しけ れば、15 事例(表 1 で「×」表示)は全て 100 年前の古材利用・風倒木利用となるが、それは有り得ない。
以上。
例えば、古材、新材の可能性を全事例で五分五分としたとしても、畿内説が成り立つにはその全てで百年以上古い古材でなければならず、その確率は2の15乗分の1となる。
つまり、640年以前では年輪年代法が正しい確率はほぼ0%なのである。
炭素年代法とは、このほぼ100%百年古く間違っている年輪(日本産樹木の年輪)を基準とした較正曲線によって得られた年代なのです。
では、どうやって実年代を図るか?
実は炭素年代よりも確実な手法がいくつもあります。
例えば、ホケノ山古墳の画文帯同向式神獣鏡があります。 この銅鏡と同じ様式の鏡は楽浪郡の跡地で楽浪最終期土器と共に出土しています。
最終期と言うのは楽浪郡の滅亡が313年なので、その直前期となり、290年代~313年代頃と考えられます。
さらに、楽浪郡最終期の土器と共伴出土の銅鏡には、徳島県の萩原2号墳丘墓から出土した画文帯同向式神獣鏡と傷口まで一致する兄弟鏡があります。
これら楽浪郡の被葬者の埋葬時期はいずれも楽浪郡の滅亡直前期(楽浪最終期土器時代)と考えられます。つまり、290年代から313年の間です。(炭素年代より遥かに正確です。)
そうすると、萩原墳丘墓やホケノ山古墳の埋葬時期もそこから遠くないやや遅れた時代と考えられます。萩原墳丘墓が31、20年代前後、ホケノ山古墳が32、30年代前後、その後に箸墓古墳が築造されたのです。 (33、40年代頃)
つまり、4世紀前半です。
他の指標ではどうか?
これは、記紀の記述の(4世紀前半の人物とされる)崇神天皇が箸墓古墳を築造した、と言う記事(モモソ姫を大市の地に埋葬した)とも一致します。
また崇神天皇の活動時期を考える指標として埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣があります。
その銘文にはヲワケの臣が471年に作らせた、とあり、そこから7世代前の上祖オホヒコは、崇神の伯父のオホヒコノミコトと考えられます。
つまり、崇神は6世代前です。中世ながら関東に定着した土豪の6世代を調べると、約140〜160年程です。つまり471年の約14~60年程前の31~40年代=4世紀前半が崇神の時代となり、やはり一致します。
ちなみに記紀の記述では崇神の死亡年は318年と、やはり、4世紀前半としています。
この様に炭素年代以外のほぼ全ての指標が箸墓古墳の築造年代として4世紀前半を示しているのが実態です。
参考として薬師寺の大修理中の五重塔の芯柱の写真を添付します。
こう言う芯柱などの場合は、やはり最外輪の年輪は殆ど樹皮直下である事が分かります。
◆以上の様に、邪馬台国が本当に畿内にあったなら、土器付着スス焦げ炭素年代(=光谷氏らの年輪年代)以外にも多くの指標が一致して纏向遺跡は3世紀前半の遺跡である!となっても良さそうなものですが、他の独立した指標はほぼ全て4世紀前半くらいを示しています。
また、日本側の記録(記紀)も4世紀前半を示していますし(4世紀前半の崇神天皇が築造者)、そもそも、自分たち天皇家や支配層は北部九州に起源を持っている、と明記しています。(神武東征伝承、饒速日命東征伝承)そして、先に北部九州から東征していた饒速日命は出発に際して天照大御神から十種の神宝を授受した、とあります。
つまり、記紀には天照大御神は北部九州にいた、と明記しているのです。
邪馬台国が畿内にあって畿内起源の国ならこのような神話は不要ですね。
しかし、現に二つの東征伝承がある。
そこで、畿内説としては、それらはただの神話だ、として無視するしかないのが実状です。
◆邪馬台国は倭国最大の国だからそれは違うんじゃないかな
わかんないけど・・・・・
◆同感です。各地に複数の王権が並立するなか、半島南端から北九州にかけての海洋勢力を代表する王権と考えるのが妥当。纏向から金印でも発掘されれば別だけど。
◆隋書倭国伝を引用して、「(倭の)都はヤマト」で「「邪馬台国」のこと」などと言われても困りますよ。
<隋書倭国伝について>
(1)都於邪靡堆
(2)則魏志所謂邪馬臺者也
(3)古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里在會稽之東與?耳相近
倭国伝の主語は「倭国」ですから主語を明確にして訓むべきです。(1)(2)(3)は連続して記されていますので(3)を切り離すのは間違いです。
(1)(倭国は)邪靡堆に都す。
(2)則ち(倭国は)魏志に謂う所の邪馬臺なる者也。
(3)古に云う「樂浪郡境及び帯方郡を去ること並びに一萬二千里にして會稽の東に在りてタン耳に相い近し」と。
隋使裴世清は大和(ヤマト)で倭王に拝謁しています。
(1)隋代の倭国の都は邪摩堆(ヤマト=大和)である。
(2)(3)魏代の倭国の都は邪馬台である。邪馬台は昔から会稽の東に在ると言われている。
会稽の東とは九州のはるか南の太平洋です。
隋書倭国伝は魏志を引用して倭国の都が邪馬台(会稽の東)から邪摩堆(ヤマト=大和)へ移動したことを明確に記しています。
◆豪族どころか、皇族の弥生時代晩期と思われる名前が糸島市と福岡市に集中しています。これは単に偶然とは思われません。
そして、この現象を近畿の豪族達の地名が移ったものと考えるのは、おかしいと思います。
例として「和名抄」筑前国早良郡平群郷(へぐりのさと)は現在の福岡市西区戸切(とぎれ)に比定されますが、「筑前国続風土記拾遺」の青柳種信先生は、戸栗(とぐり)は平群を読み誤ったもとしています。
でも、私は都地(とぢ)の地名の関係から、戸群(とぐり)が平群に書き換えられ「へぐり」になったと思います。
古墳時代以降、地名は漢字で表記されるようになりますが、これが誤読となって現在も使われていることが全国に多いと思うのです。
偉大な青柳種信先生も間違えるのですから、古代の地名は和語よりも難しいものがあります。
今の処、
平群(とぐり→へぐり)、額田(のかた→ぬかた)、蘇我(そが)の3つは弥生時代の早良平野の豪族だったと思われます。
但し、早良(さわら)の早良、平群と近畿の佐和良、平群の地名との関連は分かりません。
今は葛城(かづらき)と早良平野との関連を調べていますが、後数年かかりそうですので、pea*さんも挑戦してみて下さい♡
◆私は魏志倭人伝に描かれた世界は伊都国を中心とする北部九州で、邪馬台国のくだりは三国志の編者である陳寿の誤解によって挿入されたものと考えています。
結論を書きますと、「伊都国の女王卑弥呼」であって邪馬台国は魏志倭人伝の中では全く関係の無い国ということになります。
魏志倭人伝を引きますと
『東南陸行五百里 到伊都国 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千余戸 世有王 皆統属 女王国 郡使往来 常所駐』
この段階で「女王国」は初出、「邪馬台国」は未出です。もし女王国の横に線が引いてあって、“この女王は何国の女王か?”との問いが有ったとき、あなたは何と答えますか。もし“邪馬台国”と答えると文章読みとしては失格です。
「邪馬台国」はこの後、奴国・不弥国・投馬国への行程があってやっと文中にたった一度出現します。もし「女王国=邪馬台国」なら文章としては破綻していて、そもそも「皆統属 邪馬台国」と書けばよいのです。
女王国が固有名詞ではなく代名詞なら普通は直前の国を指すので、女王国は伊都国だということになります。
そうすると『世有王皆統属女王国』の解釈が難しくなります。「伊都国には代々王がいて、皆女王国に従っている」と読めるからです。
しかし魏志にやや先行して書かれた魏略(逸文)には
『其国王皆属女王也』
とあります。これは前段を受けて「対馬・一支・末盧の王は皆、伊都国の女王に属している」と解することができます。元々の文意はこうであったのを、陳寿は女王国=邪馬台国と考えていたため改変したのだと推測します。
その後、魏志倭人伝は
『東南至奴国 百里 ~ 南至邪馬台国 女王之所都 ~ 可七万余戸』
と続きますが
これまでの旅程の記載が
・方角、移動手段、距離、至(到)、目的地
だったものが
・方角、至、目的地、距離(日数)
に変わります。さらに「可」という語を含んで、曖昧な書き方になっています。
これはそれまでの人物と別の人物が書いたか、あるいは書いた人物は同一ながら自分で見たものではなく倭人から聞いた話を書いたと推測されます。ですので、それまでの文章と繋げていいものではありません。
また、前出の魏略にはここに対応する部分がない(散逸しているのではなく元々ない)ので、この部分は陳寿が誤解によって挿入したもので削除してよいと考えます。
少し長いですが、明治大学の堀敏一先生が榎一雄説を批判したものを引用します。
『長年中国の記録をあつかってきた経験からすれば、以上のような文章の相違に遭遇すると、私などは依拠した史料の文章をそのまま踏襲したためにそのような相違が出たのではないかとまず考えるのである。中国の記録は通常原史料の文章を引用するばあい、省略する部分はあるにしても、必要な部分はそのまま引用するのがしきたりだからである。 (中略) とすれば伊都国以後の部分もなんらかの史料の文章を踏襲していると考えなければならないであろう。しかるに榎氏は伊都国以前と以後とを執筆者ないし編者の一貫した文章と考えていられるらしい。それは一般には近代人の文章をみる眼なのではないだろうか。』(東アジアのなかの古代日本 1998)
この部分を削除すると文中からは邪馬台国に言及した部分は消えてしまいます。そんなことをしたら他の部分にも影響しそうですが、以後も全く支障なく読めてしまうのです。
魏志倭人伝の引用を続けると
『自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶不可得詳』
『自女王国以北』は魏志倭人伝に2回出てきて、いずれも女王国=邪馬台国とすると解釈に苦しむところです。
連続読みをすれば不弥国~投馬国~邪馬台国の間には『其余旁国』を当てはめることが出来なくなり(当てはめるならなぜ戸数道里を略載しないのか)、水行二十日・水行十日・陸行一月の間、全く国が無いのかということになります。
放射読みをすれば、奴国・不弥国・投馬国の情報は記載の意味がなくなります。それに「水行二十日」の投馬国を「水行十日陸行一月または水行なら十日」の邪馬台国の北に比定するのはかなり難しくなります。
細かいことを言えば、略載されているのが道里だけでなく日数が含まれることも少し違和感があります。
私は女王国=伊都国で、奴国~邪馬台国のくだりは削除できると考えていますので、女王国より北の国というのは、原資料の筆者が自分で見た対馬・一支・末盧のことになります。引用文を意訳すれば「自分で見たものは書けるけど、行ったことのない国のことは書けない」ということです。
ついでに「一大率」について書かれた『自女王国以北』に触れれば、これも対馬・一支・末盧のことで、一大率は現在の海上保安庁と税関の仕事だとわかります。女王国の権力の源泉は大陸貿易の独占にあるので「特に一大率を置く」のでしょう。
なお陸上では「大倭」が警察と税務署の仕事をしています。
従来説では伊都国の南~邪馬台国の北も「一大率」の管轄で、範囲的に無理だったり「大倭」の管轄と被ったりして解釈が難しいところです。
魏の使者は伊都国に留まり邪馬台国まで行っていないという説は有力ですが、この不自然な外交も「奴国~邪馬台国」の情報を削除すれば氷解します。
伊都国が倭国の首都で当然女王がそこにおり、それ以上行く必要がないからです。
そもそも行ってないなら、卑弥呼の墓のことが詳しいのはなぜか?卑弥呼には会わなかったのに台与(壱与)には会ったのか?ということになります。
魏志倭人伝の倭国は西暦247年頃まで、三国志の編纂は280年代ですので、その間に編者の陳寿が倭国の首都は邪馬台国であると思ってしまう事象が発生したと推測されます。
もしかしたら266年の朝貢はそれまでの伊都国ではなく、邪馬台国からだったのかもしれません。
考古学によらないと邪馬台国の場所が分からないと言われれば、私としては申し上げるべき言葉はありません。ただ文章読みとしてはこれ以外の結論はないと考えます。
魏志倭人伝の内容は概ね正確で、その正確さゆえに邪馬台国のくだりの編集ミスが多くの人を惑わせているというのが、この論争の止まない理由です。


質問タグ:邪馬台国,魏志倭人伝,豪族,光谷拓実,伊都国,広瀬和雄,九州

【必見】離婚時の不動産ローンについて質問です。 私は離婚協議中で、住宅ロー…

離婚時の不動産ローンについて質問です。 私は離婚協議中で、住宅ロー…

離婚時の不動産ローンについて質問です。
私は離婚協議中で、住宅ローンの行方についてもめています。
今回、夫からの離婚提案があったため同意しました。
しかし、夫は今になって「別れ るなんで絶対許さない。本気で言ってなかった。悪かった。謝ったのだからお前も俺を許して仲良くしよう」といっています。
私としては夫からのレス、肉体・精神的DV罵倒、亭主関白希望、愚痴はあるが問題解決心がないところが嫌になっていたので渡りに船でした。
夫名義の不動産ローンがあり、残金800万(夫の年収二年分以下)です。
夫はもともと「持ち家はいらない」と言っていたのですが、私は彼に「家どうする?賃貸と同じくらいだったら買った方が得だよね」とは一度言ったことがあります。
この不動産Aは、不動産購入検討時に夫からいくつかの提案があり、夫が見つけてきた夫の第一希望の不動産で、私も同意しました。
購入時に2人で内装を相談してリフォームしました。
ただ、見つけてからたった2週間で契約してしまったので、あっけにとられてはいました。
夫が関係良好な時に言っていたのは、「おれはこういう場所に住むのが理想だったんだ。お前のおかげでこんなところに住めて嬉しい。ありがとう」「もうおれは、バカみたいな巨額の住宅ローンに悩まされることはないんだ。こんなお手頃な物件でオーケーしてくれて本当に嬉しい」
「おれは誰とも結婚できないと思ってた。結婚してくれてありがとう」でした。
ただ、今回別れることになり、
夫から「俺の人生をめちゃくちゃにしやがってふざけるな!この家はお前のために買って、お前の好みで内装を決めた家だ。別れるなら不動産ローンを払って欲しい」と申し入れがありました。
彼の人生をめちゃくちゃにしたのなら申し訳ないと思っていますが、正直彼との思い出がある家は私もいりません。
私は住宅を引き取る責任がありますか?

アンサー

無いですよ
そういう精神的DVが嫌で別れるのですよ?
惑わされてはなりません
売却してローン残金を完済し、残りを折半です
婚姻期間中の預貯金も、折半です
(財産分与ね)
サクサク進めましょう
話し合いがつかなければ、先に家を出て、家庭裁判所で離婚調停を起こします
◆回答ありがとうございます。
彼は私の答えを誘導したり、本音を引き出すために演技や嘘をいうので私も混乱しています。
住宅の市場価格は経費の2/3くらいで、ローン残金の全額回収ができないため、彼も焦っているのだと思います。
資金は彼が出してくれていました。
結婚してまだ数年で、住宅、その他の大きな買い物をたくさんしたため、夫婦の増加預貯金はありません。
◆しっかりとその場を持ち話し合った方がいいと思います。
離婚なんてそんな手軽にするものではありません。今の人は簡単に離婚しすぎです。
そんな覚悟もなくファッション感覚で結婚したのかと思います。
困った時や辛い時こそ話し合い助け合って行くのが夫婦なんではないですか?
◆弁護士入れればいいんですよ。
精神的に持たないし、離婚後もすっきりできますよ。
法テラスで無料相談すればいいんだよ。
そのあとは有料だけど、間に人入れると、DV旦那はおとなしくなるよ。
直接会話しなくてもすむ。
◆家は夫婦の共有財産です。
マイホームを買ったことで人生をめちゃくちゃにされたなどと相手に責任を押し付けるのは、夫としても妻としても低俗です。
夫婦で相談して夫婦の共有財産として家を買ったのであって、そのことで人生をめちゃくちゃにしたなどというのは言いがかりです。
彼もあなたも家をいらないというのなら、分配しやすいように売って現金にしてしまったらどうですか?
家を売ってお金に換えて、そのお金を住宅ローンの返済に回して、ローンが残ればローンを分配、お金が残ればお金を分配。
その方法が平等です。
家は住むつもりでもらって、実際に住むことで価格分の価値があるのならいいですけれど、いらないのなら結局額面ほど価値がないです。
資産を分配する目的で土地がいくら、建物がいくらと資産価値を算出しても、実際には住むのでなければ売るし、売るとなれば建物の評価はタダか、場合によっては更地にして売ることになるので解体費用の分だけマイナスです。
不動産は断りましょう。


質問タグ:不動産ローン,住宅ローン,おれ,離婚,夫,夫婦,共有財産

コメント