【ビックリ】Yahoo!ニュースで纏向遺跡に邪馬台国の証拠がどんどん出ていると言う…

【ビックリ】Yahoo!ニュースで纏向遺跡に邪馬台国の証拠がどんどん出ていると言う…

Yahoo!ニュースで纏向遺跡に邪馬台国の証拠がどんどん出ていると言う…

Yahoo!ニュースで纏向遺跡に邪馬台国の証拠がどんどん出ていると言うニュースがあります。少し前には桃の種が大量に出ていると言う話でした。
少し疑問ですが、魏志倭人伝では卑弥呼は桃で占い をするとは書いてなかった様に思います。くがたちや骨を焼くと書いてあった様に思います。何か曲解していると言うことはないのでしょうか。又桃に対する記載はあったでしょうか。記憶が薄れていますのでおかしかったらすいません。
確か纏向には人の住んだ家の跡が無いとかだった様に思います。もしかしたらそこは邪馬台国の首都ではなく昔のササン朝ペルシャのペルセポリスの様な宗教都市だったと言うことはないのでしょうか。

アンサー

桃種は最近テレビでも報道されてたようですね。
なぜか、測定開始から8年くらいかかってようやく結果発表となったようですが。
しかも、12個の測定値のそれぞれの数値はなぜか無くて、135年から230年の間とされています。
結果発表だけじゃなく、具体的データも公開されるべきじゃないでしょうか?
そもそも、これも炭素年代。 結局畿内説は炭素年代のみなんですよね。
そして、その炭素年代は日本産樹木の年輪年代法に依拠している。その年輪年代法は光谷拓実氏のみ(最近その弟子に当たる人物が同じ研究所ながら再現したと言うが)が実現したと言う代物で、確定したものじゃない。
むしろ、この年輪年代法によれば、670年に全焼し、701年から710年頃に再建されたことが確実な法隆寺の五重塔の芯柱は594年の伐採とされてしまう。
以下、その論文。
1法隆寺は 607 年に聖徳太子により創建されたが、五重塔心柱(樹皮型、年輪 354 層、直径 82 cm。1941~1952 年の解体修理に際し厚さ 10cm の円盤標本が切取られ京都大学に保管されていた)は 594 年伐採と測定された (2001 年)。しかし、法隆寺は 670 年に全焼(『日本書紀』天智九年)、7 世紀末~8 世紀初の再建とされる。100 年の誤差が生じ現在も理由不明のままで、光谷拓実も「多くの新説を期待するのみ」とする(『日本の美術』421 号 2001 年)。法起寺三重塔心柱(心材型、直径 70cm。測定年代 572+αに対し 706 年建立:『聖徳太子伝私記』) も建立記録と 134 年違う。法隆寺五重塔心柱は最外周の樹皮が残っており、加工時にほとんど削られていない。 これを踏まえ、光谷拓実も法起寺三重塔心柱が 100 層以上削られたのは疑問とする。現状は 100 年前の古材利用 と説明しているが、年輪年代を 100 年修正して共に新材のヒノキとするのが正しい。五重塔や三重塔の心柱は建 築構造上もっとも重要で、建築学からは 100 年前の古材を転用するなど考えられない(鈴木嘉吉)。
以上のように建築学の専門家も、「古材の転用などあり得ない」としている。畿内説では古材だ!と主張するしかないが、それは建築学の常識にも反しているのです。
他にも、記録がハッキリしている事例との付き合わせで記録よりも百年以上古く伐採年が古くなってしまうケースが数多く存在する。
以下その論文。
2奈良市元興寺禅室(僧房の一部を鎌倉時代の 1244 年に改築)の巻斗(建物の横材を支える部材。樹皮型)お よび頭貫(屋根裏の横柱。樹皮型に近い辺材型)も、伐採年代 582 年、586 年頃に対し建立は 710~718 年:『続 日本紀』『元興寺縁起』で、同様に 100 年ズレている。596 年建立の飛鳥寺(当初は法興寺または元興寺で、後 に飛鳥寺と名称変更)は、平城京遷都に伴い飛鳥から平城京へ移転した(『続日本紀』718 年)。しかし、平城京 の元興寺は移築ではなく新築で、飛鳥の元興寺は「本元興寺」としてそのまま残り、併存していたとするのが通 説である。現に、日本最古の仏像「飛鳥大仏」(製作は『日本書紀』606 年または『元興寺縁起』609 年)は 21 世紀の今も飛鳥寺に鎮座し、本尊を安置する金堂も飛鳥に当然残ったはずだ。、、
滋賀県紫香楽宮跡から出土した9本のヒノキ柱根は、No1~4が樹皮型、No5は辺材型で、『続日本紀』の 記録(紫香楽宮は 742 年に建設を開始し 745 年に短期間都とした)と一致する(表 1)。ところが、No6~9は 心材型で最外年輪は 530~562 年の形成と判定された(1985 年測定)。そうすると、『続日本紀』とは 200 年の 違いがある。ヒノキでは年輪 1 層(1 年)は平均 1mm で、200 年では半径ベースで 20cm 直径ベースでは 40cm にもなる。No6~9は直径 40~50cm の掘立て柱で、直径 80~90cm の原木を外から 40cm も削り仕上げた柱削り仕上げた柱とは考えられない。
以下、
(たとえ、多くの年輪分を削りとったとしても)
削り取られる年輪数は辺材部を含め、最大100層である。
と言うことは、(以下概要)記録との違い200年から最大削り分100年を差し引いても、なお、記録よりも100年も古く伐採されたことになる。
畿内説ではこれも100年前の古材の使用としなければ成り立たない。
また、
4東大寺正倉院の事例でも、AD640 年以前の測定値を示す No1~3、No8~11 も全く同様である(表 1。2002 年および 2005 年測定)。このように、記録と照合可能な 15 事例(法隆寺五重塔心柱、法起寺三重塔心柱、元興 寺禅室巻斗および頭貫、紫香楽宮跡 No6~9柱、東大寺正倉院 No1~3板・No8~11 板)では、AD640 年 以前の測定値が全て 100 年ズレている。これら以外に記録と検証可能な事例は存在しない。仮に測定値が正しけ れば、15 事例(表 1 で「×」表示)は全て 100 年前の古材利用・風倒木利用となるが、それは有り得ない。
以上。
例えば、古材、新材の可能性を全事例で五分五分としたとしても、畿内説が成り立つにはその全てで百年以上古い古材でなければならず、その確率は2の13乗分の1となる。
つまり、年輪年代法が640年以前でも正しい確率がほぼ0%なのである。(言い換えればほぼ100%百年古く間違っている)
炭素年代法とは、このほぼ100%百年古く間違っている年輪(日本産樹木の年輪)を基準とした較正曲線によって得られた年代なのである。
さらに、以下、
群馬大学の早崎教授の論文。
最近の2400年間を除けば,過去5万年間は大気の14C濃度が現在より大きかったことがわかっている.これは,1万年前までは年輪による補正によって,それ以前は,他の放射性年代学(たとえばU-Th法)との比較によって得られた知見である.→intcal98 curve(ワシントン大学)
つまり,いまから2400年前までの試料の放射性炭素年代は真の年代(これを暦年代とよぼう)よりたいてい古く出るが,それ以前5万年前までは暦年代よりつねに若く出る.具体的に数字をいうと,1500年前の試料の放射性炭素年代を測ると100年ほど古い1600年前と出る.5000年前の試料は逆に750年ほど若く出る.時代を遡るにしたがってこの差は広がり,1万5000年前の試料は2300年ほど若く出る.放射性炭素年代と暦年代の差がもっとも開くのは3万年前であり,その時代の放射性炭素年代は暦年代より3500年も若く出る.5万年前は放射性炭素年代と暦年代がほぼ一致するらしい。
つまり、34、50年頃に築造された箸墓古墳の遺物を炭素年代で測定すれば、24、50年頃となってしまう。
これが、炭素年代の現状です。畿内説の根拠とは
この程度の薄弱なものなのです。
では、どうやって実年代を図るか?
実は炭素年代よりも確実な手法がいくつもあります。
例えば、ホケノ山古墳の画文帯同向式神獣鏡があります。 この銅鏡と同じ様式の鏡は楽浪郡の跡地で楽浪最終期土器と共に出土しています。
最終期と言うのは楽浪郡の滅亡が313年なので、どの直前期となり、290~313年代頃と考えられます。
さらに、楽浪郡最終期の土器と共伴して出土した銅鏡に徳島県に萩原2号墳丘墓から出土した画文帯同向式神獣鏡と傷口まで一致する兄弟鏡があります。
これら楽浪郡の被葬者の埋葬時期はいずれも楽浪郡の滅亡直前期と考えられます。つまり、290年代から313年の間です。(炭素年代より遥かに正確です。)すると、萩原墳丘墓やホケノ山古墳の埋葬時期もそこから遠くないやや遅れた時代と考えられます。萩原墳丘墓が31、20年代前後、ホケノ山古墳が32、30年代前後、その後に箸墓古墳が築造されたのです。 (33、40年代頃)これは、記紀の記述の崇神天皇が箸墓古墳を築造した、と言う記事(モモソ姫を大市の地に埋葬した)とも一致します。
そもそも、箸墓古墳の被葬者が誰であれ、それが、どこかの中東あたりの古墳群で、それ以前の中小古墳とは一線を画する巨大古墳のはじめての出現であれば、それをもって、それ以前の中小権力者とは異なるはじめての巨大権力者が出現した動かぬ証拠である!と誰でも考えるでしょう。
そして、石板あたりにはじめての大王の出現の記述があれば、その巨大古墳の築造者はその大王である!と考えるのが常識でしょう。
日本の場合は、それは記紀に記述されているハツクニシラシメススメラミコト即ち崇神天皇なのです。
その崇神天皇は4世紀前半の人物ですので箸墓古墳が33、40年代の築造であることと一致します。
さらに崇神天皇の活動時期を考える指標として埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣があります。
その銘文にはヲワケの臣が471年に作らせた、とあり、そこから7代前の先祖名が書かれていますが、その始めがオホヒコとあります。
これは崇神天皇伯父であるオホヒコノミコトと考えられます。すると、崇神天皇はその次の世代なので6代前の世代です。中世ながら、6世代の時代差を関東の土豪で調べるとおおむね15、60年です。 古代はもっと短命だったと考えると、13、40年でも良いでしょう。
すると、471年から13、40年前とは33、40年代のこととなります。
箸墓古墳の周辺にあるそれ以前の中小古墳はその数から考えると崇神天皇の2世代くらい前のものと考えられます。つまり、崇神天皇の4、50年前から始まったものでしょう。すると、280年代前後に神武東征伝承の元となった北部九州勢力の一分派による奈良盆地征服の事象が起こったと考えられます。
そして、アマテラスオオミカミの神話が卑弥呼と台与の神話化であり、天の岩戸神話が247年の3月24日に北部九州で起こったほぼ皆既日食の神話化と考えられます。なぜならその頃に卑弥呼が死に邪馬台国連合はあい殺しあう大混乱に陥ったと言う社会事象がピッタリ重なってしまうからです。
畿内地方はこの皆既日食は日没後で住民はその存在を知らなかったのです。
◆つまり、天の岩戸神話は247年3月24日夕方6時25分頃に起こったほぼ皆既日食をモチーフにし、その頃卑弥呼が死に、南の狗奴国との抗争中であり、男王が立つも国中服さずあい殺しあう大混乱に陥ってしまった、という不幸な社会事象とがピッタリ重なり合った事によって当時の人々に大きなインパクトを与えたのです。
それ故に、このほぼ皆既日食が天の岩戸神話として神話化されたのです。
卑弥呼は明らかに日の御子か巫女と言うように太陽に関係する美称ですね。
それが、単なる美称どころか、天照らす大御神という最高級の神にまで祭り上げられたと言うことなのです。それほど大きなインパクトを与えたのです。
それなら、その皆既日食が何処で観察できたのか?を考えれば邪馬台国の位置は自ずと明らかになります。
そうです。それは北部九州でしか観察できなかったのです。
畿内は既に日没後でしたから。
即ち、天の岩戸神話も北部九州起源の神話なのです。
◆邪馬台(or壱)国は中国の文献からのものですが、
1、奈良にあったとしたら魏志倭人伝に毛の人の言及があるはず。
2、後世の中国の文献で、日本は倭の異種とあるので、奈良は倭ではないと書いてある。
と思う。
◆投稿者様のおっしゃる通り、曲解です。
『出眞珠・青玉、其山有丹、其木有□・杼・豫樟・・櫪・投・橿・烏號・楓香、其竹篠・・桃支、有薑・橘・椒・荷、不知以爲滋味、有猿・黒雉。其俗擧事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火占兆。』
桃支と書いてありますが、木あるいは竹の種類です。その当時、桃支が桃の意味だったとしても、これを使って占ったとは書いてありません。占ったのは骨や亀の甲羅と考えられます。桃の種がいっぱい出土したから邪馬台国だとは、論理が飛躍しすぎですね。
これには理由があります。
奈良県桜井市は、巨額の国家予算を使って発掘調査していますので、何らかの成果を上げなければなりません。成果が無ければ、予算がどんどん削られてしまうからです。新聞などのメディアを使って、大々的に『世紀の大発見』として発表しているだけなのです。
纏向遺跡からは、大量の土器と青銅器が発掘されています。これだけでは邪馬台国と断言できないので、桃の種2500個出土を曲解し、おバカな新聞記者に記事を書かせているに過ぎません。
纏向遺跡は、邪馬台国ではありません。最大の理由は、鉄の出土が皆無だからです。魏志倭人伝に『竹箭或鐵鏃』(矢じりに鉄を使う)とあるのにも関わらず鉄の欠片すら出土していません。
奈良県全域でも、邪馬台国時代の鉄は、十数点しか出土していません。
以前は、九州説の学者が『鉄』の存在をしつこく突いてきました。しかし、今は話題になるのを避けています。理由は簡単です。邪馬台国時代の鉄の出土が一番多いのは、高志(北陸地方)となったからです。九州説学者も説明が付かなくなり、畿内説学者と共に『鉄』に触れないのが暗黙の了解になってしまいました。実用性のない銅鏡や銅鐸の分布を、未だに主張しています。
ちなみに、高志(北陸の福井県)の林・藤島遺跡からは、1999年に2000点を超える鉄器が出土されています。
・桃の種2500個
・鉄器2000個
どちらの価値が高いでしょうか?
桃の種の大騒ぎは、奈良県桜井市のマスコミ操作の上手さと、新聞記者のレベルの低さが招いた、おバカ事件です。
纏向遺跡の役割は、周辺諸国から集まった開拓者達の管理窓口だったと思います。当時は、奈良盆地の南部は淡水湖で、徐々に水が引き始めた頃です。これから巨大な水田地帯になるという思惑で、各地から人々が集まって来たのでしょう。
淡水湖が水田地帯となった後は、纏向の役割が終わり、消滅したわけです。
私は、奈良県を中心とする近畿地方は、邪馬台国のライバルの『狗奴国』と見ています。邪馬台国は、狗奴国の北にある高志(福井県)です。トンデモ説と思われるでしょうが、鉄器の出土だけが理由ではありません。最大の理由は、大規模農業が畿内よりも一足先に始まった事です。
具体的な内容は、私のホームページにて。
s://wwwxhimikocom/
◆桃の種と卑弥呼は関係がありません。
倭人伝にも書かれていませんし、卑弥呼と関連付けるのは誤りですね。
▼魏志倭人伝(原文、書き下し文、現代語訳)
://wwweonetnejp/~temb/16/gishi_wajin/wajinhtm
「その風俗では、何かをする時や、何処かへ行き来する時、ひっかかりがあると、すぐに骨を焼いて卜し、吉凶を占う。先に卜する目的を告げるが、その言葉は中国の占いである令亀法に似ている。火によって出来た裂け目を見て、兆しを占うのである。」
倭の風俗として何かするときに気がかりのことあると「骨を焼いて」吉凶を占うおあるが、卑弥呼が行ったということではなく倭の一般的な風俗として書かれているだけのことで桃についての記述もありません。
>確か纏向には人の住んだ家の跡が無いとかだった様に思います。
竪穴式住居が少ないというだけで、人の住んだ家の跡が無いというわけではない。
▼桜井市纒向学研究センターHPより
://wwwmakimukugakujp/info/isekihtml
「辻地区において検出された掘立柱建物ほったてばしらたてものと柱列からなる建物群で、纒向遺跡の居館域にあたると考えられています。」
「纒向遺跡では竪穴式住居跡の検出例がほとんど無く、纒向遺跡第112・137・138次調査で確認されている程度です。」
>もしかしたらそこは邪馬台国の首都ではなく昔のササン朝ペルシャの
>ペルセポリスの様な宗教都市だったと言うことはないのでしょうか。
辻地区の祭祀土坑群から『延喜式』新嘗祭の条の器材との共通点が多い祭具が出土しており、儀礼行為が行われなくなったペルセポリスとは異なるでしょう。
古代においては「儀礼行為」は政治であり、現在でも「政治」のことを「まつりごと」と呼ぶのは、その名残です。
>鬼道に通じていると言うのは私も五斗米道の様な道教ではないかと思いますが、
五斗米道は蜀の領域に存在した「教団」で曹操が蜀に進出したときに帰順して北方に信者を強制連行したために崩壊状態になったとある。
したがって地理的にも時期的にも日本に影響を及ぼすような教団でなかったことは明らかです。
「鬼道」を「五斗米道」としたのは『魏志』張魯伝に書かれているだけで、何の考察もされていない単純な説です。
先に書きましたが「纏向遺跡」の祭祀土坑からは天皇の「儀礼行為」を定めた祭具と共通性のある遺物が出土することから「鬼道」は古神道のことだと思われる。
「鬼道」の解釈については謝銘仁が「鬼」は中国では「やましいこと,疑わしいこと,うさんくさいこと」の意味があり、「儒教」を正統とする時代においては「儒教」以外の宗教は「邪教」を意味するとしている。
(まとめ)
「五斗米道」は中国の奥地に存在していた教団であり3世紀前半には魏によって壊滅状態にあり日本の影響を及ぼしたとは考えられない。
邪馬台国の想定地である「纏向遺跡」からは平安時代の儀礼道具と共通する祭具が出土されており卑弥呼は「古神道」をやっていた可能性が高い。
「鬼道」は中国語の意味から「邪教」という解釈が可能。
以上の理由から「鬼道」は「道教」ではなく現在も皇室で行われている「古神道」のことである。
>三角縁の纏向から出る鏡に似たものは中国南部に出ると聞きます。
三角縁神獣鏡は中国から出土していません。
このことが三角縁神獣鏡国産説の大きな根拠になっています。
しかし、清代に編纂された唐代の公文書の集成本「全唐文」には
「昔、魏ハ倭国二酬(はなむけ)スルニ、銅鏡ノ鉗文ヲ止メ」
と魏が倭国に授けた鏡は「特別仕様」の鏡であることSPring-8 放射光蛍光分析による成分分析の結果、中国鏡と「銅や錫の産地ならびに精錬方法は同じ」であることが判明したことで、三角縁神獣鏡が中国産で魏から倭におくられた「特別な鏡」であることから中国から出土しないことは当然である。
>魏呉蜀の魏に通じたのが邪馬台国で呉は別の国が通じていたと
>言うことはないのでしょうか。
呉鏡と明らかにわかる「呉の年号」がある中国鏡は二面しかありません。
山梨県取居原古墳出土の赤烏元年銘鏡と、兵庫県安倉古墳出土の赤烏七年銘鏡の対置式神獣鏡ですが、山梨県はともかく兵庫県は明らかに「邪馬台国」の領域です。
したがって邪馬台国を中心とする「倭国」が魏と呉と両方と通じていたといえます。
◆纏向が首都ではなく宗教都市だったとは聞いたことがありません。
呉と通じていたのは狗奴国とする説があります。
国民の70%は邪馬台国畿内説ですが、邪馬台国畿内説は確実に否定できます。
邪馬台国畿内説の主な根拠は次の通りです。
(1) 纏向は初期大和王権の本拠地だから纏向が邪馬台国に違いない
(2) 歴博発表の炭素14年代測定結果(箸墓築造年代)
(3) 三角縁神獣鏡や土器の分布状況
(4) 纏向で見つけた建物跡(柱穴)
(5) 混一疆理歴代国都之図に日本列島が南北に長く描かれている
(1)はAが正しければBも正しいとする(妄想的)推論です。
(1)の裏づけとされる(2)~(5)は全て否定できます。
周知のとおり邪馬台国論争は決着していませんよね。
既存の九州説や畿内説は論理的・合理的でないと思っています。
纏向が初期大和王権の本拠地であることは動かない。箸墓が大和王権成立期の始祖王の墓であることは動かない。しかし、大和王権と魏志倭人伝は無関係です。
魏志倭人伝は3世紀に中国人が日本に来て見聞した報告書に基づいて記した文献です。魏志倭人伝を素直に読めば、邪馬台国畿内説は有り得ません。魏志倭人伝があるから邪馬台国論争があるのです。
魏志倭人伝
「自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶不可得詳」
「自女王国以北 特置一大率 検察諸国 ・・・ 常治伊都国」
邪馬台国畿内説では、この『自女王国以北 ~~~』を説明できない。
女王国が大和にあれば以北に在る伊都国などは山城・近江・若狭あたりになければならない。
以北を「以西」にすると遠方の対馬・壱岐・末蘆・伊都などの戸数・道里が略載できて、その手前の吉備・播磨・河内などの詳細が得られないのは理解に苦しむ。手前の国々を通過することは必須です。吉備を出雲にかえても同じことです。女王国が大和にあれば吉備や出雲は重要です。
また、以北を「以西」にすると一大率の検察範囲が山陰・山陽・四国・九州地方にまで及んで伊都国に居る一人の大率には広すぎる。当時は乗馬の習慣は無い。移動手段の整った現代でさえ検察・警察は都道府県に設置されている。
大和の「以南」は紀伊半島になる。「以東」は東海・関東になる。
つまり女王国が大和にあれば東西南北すべてが説明できない。これが邪馬台国畿内説の克服すべき難点です。
魏志倭人伝
「女王国東渡海千余里 復有国 皆倭種」
女王国が大和にあれば東の国々は全て陸続きですから渡海の必要はありません。畿内説では説明できません。単純な話です。
(「水行」だったら許してやるけどね)
邪馬台国と大和朝廷は別物ですから、邪馬台国畿内説は有り得ません。
「邪馬台国が大和朝廷になった」との仮説がありますが、それなら大和朝廷に邪馬台国の伝承が伝わっているはずですがそうではありません。
魏志倭人伝には、卑弥呼の死後男王を立てたが国中は服せず次に13歳の少女壱与を立てて国中が定まったと記されています。卑弥呼や壱与の名はモモソ姫でもヤマト姫でも構いません。倭国乱⇒卑弥呼共立⇒卑弥呼の死⇒男王⇒国中不服⇒13歳の壱与と大きなイベントが連続しているのですが、記紀には何も記されていません。
日本書紀の神功紀39年・40年・43年の条の割注に魏志を引用して神功皇后を卑弥呼に擬していますが、魏志を引用するしかない事が大和朝廷に邪馬台国の伝承が伝わっていない証拠です。邪馬台国の伝承が伝わっていれば割注ではなく本文に、その伝承をそのまま記せばよいのですから。
神功皇后が実在の人物なら卑弥呼の年代と100年ものズレがありますので、同一人物ではありません。
畿内説の根拠の1つに、倭人伝の「銅鏡百枚」を三角縁神獣鏡とする説がありますが確定ではありません。
三角縁神獣鏡は日本で約560面が出土していますが、中国での出土はありません。約560面が出土していることから(地中に埋まったままの)出土していないものを含めると1000面を超えると思われます。
中国での出土がないため三角縁神獣鏡は全て日本製とするべきですが、畿内説論者は三角縁神獣鏡は特鋳で日本製と中国製が混在していると主張しています。
三角縁神獣鏡が特鋳なら銘文に「倭国」「倭王」などがあってもよいのではありませんか。三角縁神獣鏡の銘文にあるのは中国の年号・地名、鋳造の工房・工匠、吉祥句・誤字・脱字・文意の通らぬものなどです。
近年、三角縁神獣鏡の三次元計測データからコンピュータ上で3Dモデルを生成して移動・回転・拡大・縮小等の表示が可能になりました。畿内説論者は3Dモデルを利用して鏡の微細な傷や割れなどから中国製と日本製の決定的な違いを見出そうとしていますが、見出せていません。見出せなければ、全て中国製か全て日本製にするしかありません。
倭人伝の「銅鏡百枚」を画文帯神獣鏡とする説もあります。
箸墓古墳の築造年代を西暦240~260年ごろとする国立歴史民俗博物館の(一方的な)発表は学会で承認されている訳ではありません。
毎日新聞 2009年6月1日
「箸墓は卑弥呼の墓」(暦博年代測定 信憑性疑問も)
発表後、司会者の同協会理事が「(発表内容が)協会の共通認識になっているわけではありません」と、報道機関に冷静な対応を求める異例の要請を行った。
(新聞記事は東京都立中央図書館などの新聞縮刷版で確認できます)
従来、箸墓の築造は4世紀とされていた。箸墓の周濠から4世紀の木製の鐙(あぶみ)が出土している。鐙が周濠内に投棄された遺物なら箸墓は4世紀の築造とするべきです。
大王墓の完成後は周濠には入れない。神聖な周濠にゴミを捨てることは許されない。周濠に木製品が浮いていたら墓守(はかもり)が拾うでしょう。つまり周濠の底に埋まっていたのなら築造中しか考えられない。
桜井市纒向学研究センターでは「古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたものと考えられます」としているが、築造されて「暫く後に周濠に投げ込まれた」のなら墓守が拾うでしょう。「暫く後」とは10年後か20年後か多く見積もっても30年後でしょう。まさか50年後ではありませんよね。(「暫く」は短い時間のこと)
大塚初重『邪馬台国をとらえなおす』223ページに『桜井市教育委員会は、「周壕内から出土した鐙は箸墓築造後30年ほどの堅く積もった堆積土の中から~」と発表している。』と書いてある。
仮に箸墓の築造を西暦240~260年とすると、30年後も40年後も3世紀で、4世紀の鐙の出土は無理です。鐙の問題もまた邪馬台国畿内説の克服すべき難点です。
wikipedia「箸墓古墳」には、築造時期について、
「陵墓指定範囲外の周濠の底からから発見された土器に付着していた炭化物が3世紀中頃のものだとしても、この古墳が発掘された纒向遺跡には縄文時代から古墳時代までの遺跡が存在しているのでそれが箸墓古墳の築造年を代表しているとは言えない。」
「また炭化物による年代推定には通常数十年から百年程度の誤差があり、3世紀後半と断定できるほどの精度は無い。」
と、記述されている。
※炭素14年代測定を行うのなら、日本考古学協会主導で箸墓の宮内庁管理区域内から人骨などの適切な遺物を掘り出して、3つ以上の研究機関や大学へ測定を依頼して結果を公表するべきですが、難しいでしょうね。
畿内説の考古学者は魏志倭人伝を無視しているが、考古学からも畿内説を否定できます。
wikipediaに纒向遺跡の「搬入土器の出身地割合」が示されていて割合の合計は100%になるが出身地に九州は含まれていない。もしかして九州の土器が1個や2個だから割合(%)に含まないのかな。
纏向遺跡で各地(関東~西部瀬戸内海)の土器が出土していて、その地域を支配しているのなら、九州は支配されていなかったと考えられる。九州の土器が1個や2個出土しても支配したとは言えないでしょう。支配していない伊都国への一大率の設置はできないでしょう。
畿内説の考古学者は纏向で見つけた建物跡(柱穴)を卑弥呼の宮殿と結びつける。そしてマスコミは「纏向=邪馬台国」を是認するような「卑弥呼の館か」などと報道する。そして多くの人々は「纏向=邪馬台国」を是認するのです。
纏向周辺には古代の天皇の宮が在ったのだから、いきなり卑弥呼の宮殿ではなく先ずは天皇の宮を考えるべきです。
考古学者の森浩一(1928-2013)先生は、「纏向遺跡の建物が出たとき、崇神の宮ではないか、垂仁の宮ではないか、景行の宮ではないかということは、どうして出てこなくて、いきなり卑弥呼がくるのですか。」と苦言を呈している。
魏志倭人伝
邪馬台国(もしくは邪馬壱国)は「南至投馬国水行二十日」「南至邪馬壹国 女王之所都 水行十日陸行一月」と記されています。そのため女王国は「当在会稽東治之東」と記されているのです。
現代の地図を見て魏志倭人伝はデタラメだと言うのは簡単ですが、当時の中国に現代と同様の地図などありません。
当時の中国人の地理認識なら中国で作られた、
12世紀頃の『古今華夷区域総要図』
13世紀頃の『宋拓輿地図』
14世紀頃の『東南海夷図』
などの古地図を参照するべきです。12世紀~14世紀の中国人の地理認識の変化が分かります。(ネット検索で確認できます)
これらの古地図を見れば魏志倭人伝の「当在会稽東治之東」も理解できます。つまり「当在会稽東治之東」は当時の中国人の地理認識を拠り所にしていることが分かります。
◆いろんな意見がありますよねー!
あくまでも諸説ある中の1つです。
桃というのは、中国では古くから(日本の邪馬台国以前から)不老不死の食べ物であり、祭祀にも使われていました。つまり纏向遺跡の王は、中国に精通していた可能性があります。
卑弥呼の鬼道というのは、当時大陸で盛んだった儒教の一派、五斗米道のようなものではないかと思います。三国志で有名な黄巾の乱もそうですね。
邪馬台国の卑弥呼が何故、倭国連合の女王になれたのか?つまりは、中国通だった!中国の鬼道に精通していたからでは?
中国では魏が台頭し、遼東半島の公孫氏も滅ぼされます。つまり、倭国の隣国に強大な魏が迫っていた訳です。倭国内で争っている場合ではなく、各地の首長達は倭国連合を組み、大陸の勢力に対抗しようとしたのでしょう。そんな状況で卑弥呼が女王になったのは、やはり大陸に精通していたと考えるのが妥当です。倭国連合が成立すると、卑弥呼は魏へ朝貢します。魏と良好な関係を築き、倭国の首長達の信頼を得られたのではないかと思います。だからこそ邪馬台国の埋葬方法、前方後円墳が全国的に広がったのです。
この時代、間違いなく畿内が最新地域です。纏向遺跡から関東から九州までの土器が出土することからも分かります。流通、政治の中心だったのです。近年、滋賀の彦根から邪馬台国時代の鉄工房の跡が発見されました。日本最大級の工房です。つまり、畿内全体が最先端だったということですね!
これが邪馬台国でないという理由があれば、逆に知りたいです。魏志倭人伝を読めば邪馬台国は九州しかあり得ないとか、放射性炭素年代測定法はあてにならないとか!
もう少し、出土例や時代背景から九州説を語ってほしいですね。


質問タグ:魏志倭人伝,邪馬台国,卑弥呼,三角縁神獣鏡,ペルセポリス,光谷拓実,ササン朝ペルシア

コメント